おみくじ入りのクッキーは、サンフランシスコの日本庭園で生まれたと言われている

おみくじ入りのクッキーの故郷は、中国ではなく、サンフランシスコの日本庭園かもしれない。京都のおせんべいと、いくつもの「うちが元祖」の話を、報道と Wikipedia をたどって読む。
お菓子を割ると、中から、小さな紙が出てくる。
「近いうちに、いい知らせがあるでしょう」。そんな、当たるとも当たらないとも言えない、ひとこと。
中華料理店の、最後のひと皿。でも、このお菓子の故郷は、中国ではないかもしれない。
日本庭園の、お茶うけ
話の舞台は、アメリカ・サンフランシスコの、日本庭園(ジャパニーズ・ティー・ガーデン)。1894年の博覧会の展示として始まった庭だ。
庭を手がけたのは、造園家のマコト・ハギワラ。1878年に、日本からアメリカへ渡った人で、この庭で、緑茶と一緒に、フォーチュンクッキーを出した、と伝えられている。
庭で働く人は、こう聞いたと話す。日本のおせんべいをもとにした、お菓子だった、と。(これは、また聞きの話だ。)
最初のクッキーは、「MH」と刻まれた型で、1枚ずつ、手で焼いていたという。冒頭の写真は、その型だと、庭に飾られているもの。札には、「1914年ごろ」とある。
手が足りなくなって、お菓子屋さんへ
お客さんが増えて、手作りでは、間に合わなくなった。ハギワラは、サンフランシスコの日系人の町(ジャパンタウン)の、お菓子屋さん「ベンキョウドウ(Benkyodo)」に、作りを頼んだ。
ベンキョウドウは、1906年に、オカムラ・スエイチさんが開いた店。孫のゲイリー・オノさんの話では、オカムラさんは、アメリカ人の口に合うように、味を整えることを、ハギワラに勧めた。それが、バニラの風味になった、という。
同じ話の中で、オノさんは、1911年ごろ、ベンキョウドウが、大量に作る機械を作るのを手伝った、と語っている。
京都の、鈴のおせんべい
日本には、「辻占煎餅(つじうらせんべい)」という、よく似たおせんべいがある。京都で、神社のまわりで作られてきたもので、大きくて、色が濃い。そして、運勢の紙は、中ではなく、折り目にはさんである。
日本の研究者の中村康子さんは、1878年の木版画に、このおせんべいが焼かれる様子が描かれているのを見つけた、と伝えられている。
19世紀の京都に、とてもよく似たお菓子があった。Wikipedia も、そう書いている。
「元祖」は、ひとつじゃない
「うちが元祖」と言う人は、ほかにもいる。
ロサンゼルスの和菓子店「フゲツドウ(Fugetsu-do)」も、その一つ。1903年に開いた店で、いまの店主の祖父の話として、うちが作ったと伝わっている。神社のおみくじがヒントだった、という説明も、残っている。
ほかにも、ロサンゼルスの、中国系の人が、1918年に作ったと言い出した。
1983年には、サンフランシスコの「歴史審査会(Court of Historical Review)」が、「ハギワラが、元祖」と判断した。ロサンゼルスでは、この決定に、反発の声があがった。
フゲツドウの店主のブライアン・キトウさんは、ベンキョウドウの孫のオノさんとの間柄を、こう語っている。
“if it wasn’t my grandfather, I hope it’s your grandfather.”
(うちの祖父でなかったなら、あなたの祖父だったらいいな、という意味。)
中華料理店に、広がるまで
作家のジェニファー・8・リーさんは、1910年代から20年代、日本からの移民が、中華料理店を営むことが多かった、と話している。まだ、アメリカ人が寿司を食べなかった時代だ。
日本人が作る中華料理店では、このクッキーは、デザートだった。当時の名前は、「運勢のお茶菓子(フォーチュン・ティー・ケーキ)」。
その流れを変えたのが、1942年の、日系人の収容だった。クッキーを作っていた日本人の店も、収容所に送られた。戦争が終わっても、作るのをやめた日本人の菓子屋は、多かった。
戦争中に、中華料理店の人気が高まり、中国系の人たちが、このクッキーを、大量に作るようになった。
リーさんは、こうまとめる。日本人が、考え出した。中国人が、広めた。そして、アメリカ人が、たくさん食べている。
割るまで、わからない
割るまで、何が書いてあるかは、分からない。誰が、いちばん最初に作ったかも、実は、きれいには、割り切れない。
そんなあいまいさも、お菓子の中の、小さな紙のようで、悪くない。次に、あの紙を引くときは、庭のお茶うけだった、昔のことを、少しだけ思い出してみてほしい。
出典
情報確認:2026年10月